東大寺 二月堂。

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現在、奈良駅周辺において、最大の面積を誇り、いつも観光客が絶えない東大寺。
東大寺の観光スポットといえば、やはり廬舎那仏。しかし、仏像マニアとしては、何回言っても、何時間居ても飽きない仏像の宝庫。にもかかわらず、南大門から大仏殿までの鹿せんべいロード以外が、案外空いています。



今回は「お水取り(修二会)」で有名な二月堂にクローズアップしてみようと思います。

「お水取り」とは、東大寺二月堂の修二会のことで、二月堂の本尊十一面観音に、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により「興隆仏法(こうりゅうぶっぽう)、天下泰安(てんかたいあん)、万民豊楽(ばんみんほうらく)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)などを祈る法要行事のことを言います。

この修二会は、天平勝宝4年(752年)に、実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって始められ、以来一度も途絶えることなく続けられ、2001年には、なんと1250回を迎えました。

1200年…。奈良時代から現在まで続けられているというこの行事。もう…言葉になりません。
もとは旧暦の2月1日から行われていたので、お堂も二月堂と呼ばれていますが、現在は3月1日から2週間にわたって行われています。

お水取りの本行は、3月12日深夜(13日の午前1時頃)に若狭井(わかさい)という井戸から観音様にお供えする「お香水(こうずい)」を汲み上げる儀式です。お水取りという名の由来も、ここから来ています。

実際には、夜毎の大きな松明(たいまつ)に火を灯します。この火の粉をかぶると、健康で幸せに暮らせるという言い伝えがあることから、この時期には、多くの人は二月堂を訪れます。国宝建築物で、松明(たいまつ)をダイナミックに燃やす光景は、さぞかし圧巻することでしょう。

今回訪れたのは、残念ながら2月中旬。修二会の準備が着々と行われていました。


竹の飾りが整然と並べられ、粛々と時を待つ様子を感じます。
すると、、あれっ!?いつもと何かが違う気がする...。


あっ...!


お宮さんがなくなってる…。燃えさかる炎から退避させるためでしょうか?
忽然と姿を消されておりました。

さてさて、二月堂に入ってみましょう。


ここの本尊様は十一面観音菩薩さま。1250回以上も修二会が行われているのにもかかわらず、公開されることのない絶対秘仏。どんな観音さまが祀られているか、気になってしょうがありません。



ちょっと異国の雰囲気漂う、灯籠の雰囲気が本当に美しく、広大な面積を誇る東大寺のなかで、最も好きな場所です。


一昨年の訪れたときは、あいにくの小雨で、さぞかし景色のよいだろう風景を逃してしまったので、今回は時間を計算して来てみました。きっと奈良随一!?の景色が拝めるのではないかと…。


そうなんです…。この夕陽。お寺のシルエットと夕陽が重なり、なんとも神秘的な風景。


奈良が「まほろば」とも言われる所以を肌で感じる…。なんだか、崇高な「気」みたいなものが体のなかにすーっと溶け込んでいくのです。大仏殿のシルエットの向こうに浮かぶ大和の山々。ふと頭に浮かんだ聖徳太子の肖像画。約1300年前、飛鳥時代に蘇我馬子や聖徳太子が積極的に仏教を取り入れ、日本の国家体制がつくられました。また、2月11日は建国記念の日。初代天皇といわれている、神武天皇の即位日です。神武天皇の居られた都もまた奈良。現在の日本は、やはりこの地から生まれたのではないか?と思わざるを得ないこの感覚、この感動。かつて日本の礎を築いた、いにしえの偉人たちを重ねながら、「まほろば」を感じるのでした。

※まほろば:日本の古語で、素晴らしい場所、住みやすい場所という意味。





今まで、マジックアワーと言われる夕陽を何度か観てきましたが、そのなかでもダントツで感動した、東大寺二月堂の夕陽。日本人でいることに、日本に生まれたことに、誇りを感じた瞬間でした。いにしえの日本人が築き、守られ続けたこの小さな島国を大切に想い、次世代に継承し、また世界に伝えていくことが本当に必要だと思いました。


十七条の憲法 第一条。

一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。






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