長崎の唐寺のなかでも、もっとも中国らしい外観が特徴の「崇福寺」。
あまり見かけたことがない、リアルな竜宮城のような山門。乙姫さまに誘われるかのように、心が躍ります。


山門をくぐると、第一峰門。別名、唐門とも呼ばれるこの二の門。色鮮やかな朱色で艶やかな装飾が施されています。


門の上部に掲げられているこちら。中国の寧波で材を切組みし、唐船に乗せられてやってきたいう珍しい組木。先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれる、この詰組は、本場中国の華南地方にも稀だという、貴重な造形です。元禄8年(1695年)に造られたこの第一峰門は、国宝にも指定されています。



崇福寺は、寛永6年(1629 年)に福州地方出身の在日唐人が中心となって、唐僧の超然禅師を招き、建立されました。興福寺や福済寺が「南京寺」と呼ばれることに対し、「福州寺」として親しまれていました。



当時の長崎の唐寺は、宗教的な意味合いではなく、航海祈願や先祖供養を主としており、海の神様媽祖」を祀る「媽祖堂(まそどう)」を建てることを目的としていました。その後、寄進などによって、山門や大雄宝殿などが造られていきました。

はるばる中国から船に乗り、貿易をする商人たち。命がけの航海であったことでしょう。当時の在日中国人たちが、心のよりどころにしていたことがうかがえます。



観光客が押し寄せるでもなく、地元の人たちも日課のように訪れているようです。江戸時代の長崎貿易で渡来した唐人の末裔の方々でしょうか?お顔のつくりが、中華圏の要素をもった人が多い感じました。

そして、所々に施される彫刻の数々。雨の街、長崎にもかかわらず、とても乾燥してるように感じるのは、塗装の劣化でしょうか?


観音さまやお釈迦さまも、どうやら顔が日本人ではなく、唐人顔をされているのが特徴です。脇侍も菩薩や天部ではなく、唐服を纏う誰か?で、まったく日本の寺院とは異なります。また、どこも朱色であざやかなハズなのに、どこかもの悲しさを感じるのが、わたしの唐寺の印象です。



ちょうど、長崎の勉強の意味も込めて、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を見入っていたわたし。伊勢谷友介さん演じる「高杉晋作」が、ここで碁を打ったり、龍馬と会合をするシーンがありました。幕末の志士たちが、ここに集まって、日本の未来のための足がかりを築いていたのかと思うと、とても感慨深いです。



「おもしろきなきこともなき世をおもしろく すみなしけりは心なりけり」

上海行きを命じられ、長崎に着いた高杉晋作は、どんな夢を描き、期待に想いを馳せていたのでしょうか?

日本最古の黄檗宗の寺院と知られている、興福寺。
長崎らしい唐風の朱色の山門は、「あか寺」として、市民に親しまれています。江戸時代初期に中国僧の真円が航海祈願のために、建立しました。



さて、長崎の興福寺と言えば、隠元和尚が中国からはじめて来日された際に、住持した寺院としても知られています。



当時、福建省黄檗山の万福寺が臨済宗の代表的な道場として活動していました。日本の禅宗の法式正伝が衰退していくなかで、本場の禅宗の日本伝承を願い、長崎三唐寺と檀家衆が中心となり、隠元和尚を招いたことが、今日の黄檗宗のはじまりです。



境内に入ると、ソテツが並び、日本の寺院とはまた異なった印象を受けます。興福寺の本堂である、大雄宝殿の瓦屋根も両端が跳ね上がっているところが、また異国の雰囲気を漂わせています。

過去3度の火災や暴風などによって、大破してしまった大雄宝殿。明治16年に再建され、現在に至ります。建築は、本場中国の匠によって建てられ、資材のほとんどもまた中国から輸入しています。中国南方建築の代表作として、戦前から国の重要文化財にも指定されています。





本場中国の伝統的な技術が、いかに繊細であるかを目の当たりにしました。元来、私たちが日本文化としているものも基を辿れば、中国がルーツであるものばかり。社会情勢や現在の国民意識も大きく影響しているので、中国産の製品というと敬遠されがちですが、古来からの中国の伝統技術をみると、中国の歴史と奥深さを感じ、また現在の日本の礎となる、さまざまなモノやコトを伝承してくださったことに感謝の気持ちが生まれます。




在日中国人たちのサロンとしても、親しまれていた長崎の唐寺は、出身地別に建立されました。ちなみにここ、興福寺は、浙江省江蘇省出身の信徒が多いお寺です。

特に、江戸時代初期の長崎は、朱印船貿易をはじめとした唐船貿易の奨励から、多くの中国人が長崎を訪れ、その数は、市民の1/6に至るほどであったとか…。

故郷を愛でながら、烏龍茶を嗜んでいたのでしょうか?


本場中国に行かずしても、唐文化を堪能できる長崎の寺めぐり。一風変わった長崎ならではの、異国のお寺をお愉しみください。