京の冬の旅も終わりを迎えようとする3月半ば、京都東山花灯路が始まります。
東山に風情ある社寺仏閣や参道に、LEDの灯りが点され、より美しさを増します。

昨年、清水寺の千日詣りのライトアップの美しさに魅了されたわたし。
歳を重ねたせいか、クリスマスイルミネーションや高層タワーからの夜景に感動も薄くなり、「ただのライト...」くらいにしか思わなくなり、足を運ぶことすらなくなりましたが、京都のライトアップは、別格...。

ライト(光)の綺麗さではなく、光に照らされた建物やお庭、景色が美しい。
昼間の美しさとはまったく異なる、新たな表情。
現代だからこそできる、時代を超えた見事なコラボレーションが魅力です。

限られた時間と、なかなか落ちない陽にソワソワしながら、東山をうろうろするわたし。
やっと陽が落ちたときに、偶然居合わせた「青蓮院門跡」。



青蓮院は、古くから皇族との関わりが深い天台宗の門跡寺院です。
※門跡寺院とは、皇室或いは摂関家によって、受け継がれてきたお寺を指します。
江戸時代には、天明の大火によって、御所が炎上した際の仮御所になったこともあります。
また平安後期、院政をはじめた白川法皇の愛人、祗園女御の住まいであったと言われています。
NHK大河ドラマ「平清盛」で、松田聖子さんが演じられていました。

そんな由緒正しき「青蓮院門跡」。
大小300を超える青いLEDの光が池泉廻遊式庭園を照らす、というライトアップ。
さて、実際には...


庭園を囲む土壁の塀と楠の木が、煌々と神秘的なブルーに照らされると、
下から次々と湧き上がる、青い光の粒。


次々に現れる光の粒に目を奪われていると、楠と塀がいつの間にか消え、
まるで、月あかりに照らされた海が広がっているかのような景色に変わっていた。

昼間の緑溢れる庭園の面影は、全くない...。
目の前には、ただただ神秘的な海。
そんな不思議な庭園の姿に見とれるばかり。


そして、この日は惜しくも「満月の前日」。
こんなにも美しい光を放つ、夜のライトアップの中でも、群を抜く「月あかり」。
人間の技術でいくら頑張ったとしても、叶うことのない、天然のあかり。
祗園女御さまや藤原摂関家も眺めたであろう月を、時を経た今、わたしも同じように見上げているのかと思うと、京都でしか味わうことのできない味わいの深さが身に染み入ります。

堂内には、美しい屏風絵や百人一種の絵画。
平安文化に触れながら、境内に出ると、小ぶりな御堂。
青い不動明王さまと、地球儀にようなお前立ち像。
ここ青蓮院のご本尊は、熾盛光如来で、曼荼羅になっているらしいです。。
青不動明王とともに、非公開の秘仏とのこと。

ご本尊さまの厨子の前に、レプリカの仏像がいらっしゃるのが通例ではありますが、
このお前立ち像という「まるいもの」は、はじめて出逢いました。
なんだか、西洋からの外来品のようなカタチなので、すこし不思議なかんじです。

境内を歩くと、日吉神社に繋がっています。
東山にいるのに、なぜか嵐山にいるような気持ちになる…


竹林のライトアップ。
高々とそびえ立つ竹の美しいこと…。

ライトアップの醍醐味と夜ならではの新たな表情を魅せる、夜の特別拝観。
京都ならではの景色に魅了され、京都愛が強くなる一方のわたし。

「大切な五つの心」
一、はいという素直な心
一、すみませんという反省の心
一、おかげさまですという謙譲の心
一、させて頂きますという奉仕の心
一、ありがとうございますという感謝の心
よき心の灯で一隅を照らそう








新緑芽吹く京の朝。
どうしても、やってみたいことがあったわたし。
心躍らせながら向かうは、「建仁寺塔頭 両足院」。

臨済宗総本山、京都五山のうちのひとつでもある建仁寺の境内に位置する。
境内の中央すこし北、素通りしてしまいそうな、こじんまりとした入り口がある。

集合時間の8時30分までに、10人ほどの参加者が集い、お坊さまが案内をしてくれた。
まだ少し肌寒い朝。本堂の板の間の冷たさが、緊張感を誘う。
ここで、わたしがどうしてもやってみたかったこと...


そう、朝の坐禅体験。

まず、ご本尊さまにお焼香をして、朝のごあいさつ。
この有り難いご縁を、仏さまに感謝の意をお伝えします。
その後、臨済坐禅のお作法について、お坊さまから手ほどきを受けます。

臨済坐禅は、壁を背に、結跏趺坐(けっかふざ)もしくは半跏趺坐(はんかふざ)を組む。
そして、手のひらと親指で、円をつくる法界定印(ほっかいじょういん)。

ちょうど、この法界定印の位置、おへその少し下あたりを「丹田」と呼ぶ。
丹田は、気が集中するところであり、人間そのものの中心、軸となっている。
ここに力を入れると、背筋がすーっと伸び、とてもきれいな姿勢となる。
次の目線を1メートル先の床に落とす。決して、目はつぶらない。

次に気息。
坐禅は、座り方のお作法よりも、この呼吸法がもっとも大事。
ゆっくり吐いて、ゆっくり吸う。お腹に意識を集中し、安定した腹式呼吸で整えると、
鐘の音とともに、ゆっくりと坐禅体験ははじまる。

はじまりの合図である鐘の音が止むと、警策を持ったお坊さまが、私たちの前をゆっくりと行ったり来たりする。

只管打坐の曹洞坐禅で育ったわたしは、ひたすら心を「無」にすることを心がけてみる。
すると、心が「無」になるどころか、ウトウトしてしまう。

「無」=「意識が遠ざかる」=「眠る」(気づくと法界定印の親指が離れている...)

「いかん、いかん」、・・・無?眠?・・・・・、「いかん、いかん」

その繰り返し。
起きていようと意識を取り戻すと、今度は余計なことばかり頭に浮かぶ。

しかし、余計なことではなく、少し眼前の景色に目を移してみると、



庭園の美しさ、鳥の声、爽やかな風の音や香りをゆっくりと感じられるこの時間が
とてもかけがえのない貴重な幸せな時間であることに気づく。

3月は、会社の決算ということもあり、とにかく忙しかった...
やっとその生活が一段落し、今、早朝の京都でゆっくり坐禅をすることの有り難さが
じわじわと湧いてきた。すこし物思いにふけると、いつものようにまた欲が生まれた。

この次は、どこに行こうかな?
残りわずかな京の時間をどう過ごすか、頭のなかの時計と観光名所リストを照合させていく。
こんな風にボヤッとしている時は、たいてい猫背になり、法界定印が崩れ、身体が曲がっている。

そんなこんなで、約20分間の坐禅体験が終了した。
たった20分、普段の生活であれば、光の如くあっとゆう間の時間であるが、
坐禅の20分は、すごく長い...。まるで、1時間座っていたかのよう。

足の痺れをなんとか元に戻そうとあがいていると、お坊さまがお茶を出してくれて、
ありがたい法話をしてくれた。

「坐禅しているとき、いつもは気づかない音や香りに気がつきます。」
「葉がそよそよと揺れる、そこの木。」
「何百年も昔からある木は、何を発することもなくただそこにいる。」
「じっとそこにいて、春に芽が出て、夏には緑に覆われ、秋には金色となり、冬
に散る」
「その繰り返しで、ずっとこの地を守っている」

「鳥の声、四季折々の眼前の花々。4月は桜、5月は藤、6月は紫陽花…」
,このような、ありのままの自然の有り難さをいつも感じるとお坊さんは言っていた。

臨済坐禅は「無になれ」というよりは、座ることで「味わう」という感じだろうか?
雑念が浮かんできたら、横に流す、また浮かんできたら、横に流す。
自分のなかに滞留させず、とにかく流し続けることで「無」に近づく。

きっとこんな感じではないだろうか?

とても清々しい朝を迎え、坐禅のあとは、ぐんぐん芽吹く庭園の緑を堪能させて頂いた。


朝の起きしなに、ふと訪れて、ゆっくりと坐禅を組むこの贅沢。
ちょうど数日前まで、金勘定ばかりしていたわたし。
こういう時間こそが、真の上質の価値ではないかと、心から思った。



このような京体験から、お寺の魅力にどんどん気づきはじめていくこととなっていった。







わたしが京都を訪れる目的は、やはり、「寺院めぐり」である。
日本の歴史とともに、お寺の歴史があり、国の政にも深く関わる諸寺院。
特に長い間、国の中心であった京の都の寺院は、壮大で奥深い。
寺院の信仰、歴史、役割、庭園、仏像、建物...。すべてにおいて、風光明媚。

そのため、いつもメインの拝観寺院を決めてはいるもの、その周辺を散策しながら、自分の好きな御寺を探している。
ここ雲龍院も、何気なく訪れた御寺のひとつ。

東福寺から民家を抜け、20分ほどあがると、泉涌寺の境内の裏に、雲龍院はありました。
建物自体はあまり大きくなく、こじんまりとした隠居寺院といった印象。

1月14日の泉山七福神めぐりに向けて、慌ただしく準備が進められていました。
いつもは台所にいらっしゃるという「走り大黒天」さまもこの日ばかりは、本堂龍華殿へのお披露目のため、少し場所を移動して...。


なぜか、とても勇ましく、激しいお顔立ちの大黒天さま。
大黒天さまと言えば、俵の上に乗り、大きな袋を担いで、にっこりと優しい笑顔。
玄関や台所で「食物・財福」をもたらす七福神の神様として、有名です。
...が、ここの大黒さまは何だか異様な雰囲気。ちょっと怖い...。

そして、この雲龍院のすばらしいところは、幾つもの生きる絵画。


まず、一番はじめにお目見えするのが、蓮華の間の「しきしの窓」。
この4枚の襖窓、見事に揃ったこの絶妙なアングル。
この襖を配置してから、庭園を作り込んだのか、いや、作り込んでもここまで揃うか。
でも、ひとつ言えることは、お庭に相当、御丁寧に手をかけ続けているということ。
ひたすら、「はぁ〜。」と感嘆の溜め息と共に立ちすくむわたし。

近づきすぎると角度が変わってしまうので、レンズを通して、じっくり鑑賞。


1枚目は、椿。
花は咲き乱れたところを想像するだけでも、うっとり。


2枚目は、灯籠。(うわー。。ピントが合ってない…)
後方に映る枝は、梅でしょうか?


3枚目は、楓。
すっかり葉が落ちて、ちょっともの悲しい冬の姿。
きっと秋には、煌々と赤い紅葉で人々を魅了することでしょう。


4枚目は、松。(これもやってしまってますね。。わたしの力量不足。)
冬=松。1月でとても縁起がよいのに、うまく表現できず…。
でも、この枝の少し垂れ下がっている姿。こうも美しく窓におさまるのかと思うと圧巻です。


こちらは、境内6カ所に置いてある「煩洗石」。
この石にそっと足を置き、境内の美しい景色で、心を清めます。
すごく粋?雅?な発想が、京らしい。

そして、次に向かうは、春の訪れが待ち遠しい「悟りの窓」。


手前から、紅梅、海棠、しゃくなげ。
2月〜5月まで順に、異なった紅い花を愛でることでしょう。

お庭の花々だけでなく、見事に季節を演出してくれている生け花。




華道家の清水南丈先生の美しい作品が、御寺に美しい華を添えます。

きっとこの御寺を守り続けるご住職とお大黒さまのお心の深さなのでしょう。
また、ここでは、好きなお部屋で、ゆっくりとお抹茶を頂くことができます。

この日、数珠を求めるがあまり、急いでこの御寺をあとにしてしまったことが、とても悔やまれます。

日頃のストレス?忙しさ?
日常の何か…で、少しバランスが崩れる己を正そうと、お参りをしているにもかかわらず、「はるばる京都まで来たんだから...」と欲張る気持ちが「あかんなー。」と改めて思う。

帰路につき、雲龍院について復習をしていると、こんなブログを見つけました。
→ 京都雲龍院 寺庭夫人のブログ

お寺の奥様のブログ。
お寺のお話はもちろんのこと、たまに出てくるご家族の話題がなんとも良い。
お寺と言っても、普通の家族。在家の暮らしと、そう変わることはありません。
とは言うものの、お寺の家族にしか分からない柵(しがらみ)もあるわけで。

なんだか、色々な想いに更けながら、自ら発信をする大黒さまに、これからのお寺の役割と展望を深く感じ入りました。

ここは、現存最古の写経道場とのことなので、次回はゆっくり庭園拝観と写経修行にまいりたいと思っています。




1月8日〜1月12日は、十日ゑびす。
商売繁盛を祈願して、毎年行われる大祭で、福笹を求めにたくさんの人々が訪れます。

七福神のひとりで、福の神として親しまれている「恵美須さん」。
右手には釣り竿、左手には大きな鯛を持ち、漁業の神と言われています。

ここ、京都ゑびす神社は、兵庫の西宮神社、大阪の今宮神社と並んで、日本三大ゑびすと称され、「えべっさん」の名で親しまれています。

さて、この十日ゑびす。
関西では有名とのことですが、関東ではなかなか馴染みの薄いお祭り。
恥ずかしながら、わたしはこの度、はじめて「十日ゑびす」を知りました。

なぜ、十日なのか...。
これは、えべっさんのお誕生日が1月10日と言われているそうで、その由来から毎年盛大なお祭りが行われているそうです。



いつもなら、なんてことない大和大路通。
この日ばかりは露店が軒を連ね、福笹をもった人が次々に湧いてきます。

夏のお祭りもいいけど、冬の寒いなか、甘酒やいか焼きをハフハフしながら食べるのもまた、嬉しいものです。


お父さんとお母さんに連れられた子供たちもこの日ばかりは、夜の遊びに無中。
りんご飴食べたり、フライドポテト食べたり、はしゃいでる子供が可愛いらしい。


いつも不思議に思うのが、お祭りの露店とお土産屋さん。
何年も何年も売れない商品がずーっと店頭に並んでいる気がしてならないのです。

ここで言うと、ウルトラマン、仮面ライダー、アンパンマン、ディズニーあたりが怪しい...
だって、わたしが小さな頃から形が何ひとつ変わらない気がする。
とは言うものの、ゴールデンボンバーの樽美酒もいるので、少しづつお面屋さんの時代も変化しているのでしょう。
お面ってはっきり言えば、使用頻度ゼロだけど、絶対になくなってほしくない露店のひとつ。

さて、そんなこんなで、露店を楽しんでいると、いよいよ京都ゑびす神社に到着。


夜とは思えない煌煌とした光のなかで、たくさんの人々が商売繁盛、家運隆昌を祈願しています。
日本三大ゑびすとはいうものの、わりとこじんまりとした神社なので、きっと地元の人が多いであろうこの十日ゑびす。京都の日常に入り込んだ気持ちで、とても心地がよい。

そして、境内の入口で、随分たくさん売られている「これ」。


こちらも初対面。
川崎大師の風鈴市の風鈴なみに売られている...。

これは「人気大よ也(にんきおおよせ)」といって福笹と同じような縁起物で、この笠を商売繁盛を願い多くの方が来て頂けるようにと店の隅に吊り下げる風習があるとのこと。

しかもこの笠は「初えびす」の時にしか手に入らない。

「うわー、限定かー、買ってみればよかった…」

人だかりの方へ進んで行くと、「あら!舞妓さん!」

この日は11日なので、残り福祭。
夜の部は、宮川町の舞妓さんが福笹を奉仕してくれます。


バッタリ舞妓さんに会っても、正面からジロジロみるわけにも行かないのが、いつもの京の旅ですが、この日は、じっくり舞妓さんを鑑賞?させて頂きました。

舞妓さんが配ってくれる吉兆笹に、大宝・福俵・福箕・福熊手・福鯛・宝船・宝来等の縁起物をつけるのが、えべっさんの福笹。

1年間、神棚や目線よりも上の清浄な場所に置き、また次の年の十日ゑびすで返納するとのことです。

笹は「節目正しく真っ直ぐ伸び」「弾力があって折れない」「葉が落ちず、常に青々と茂」ことから、商売繁盛の縁起物となったそうです。


舞妓さんにうつつを抜かすだけでなく、きちんと神様に商売繁盛をお祈りします。
若干混んではいるものの、境内にはすんなり入れるし、すぐに順番も回ってきました。
お祭りでこのくらいの人の多さ、理想的です。


1月、そして初ゑびすということもあって、おみくじもどっさり。
次の日が正式な「仕事版初詣」と決めていたので、ちょっぴり我慢…。


はじめての十日ゑびすのお詣り。
京文化に触れることができて、とっても満足ができた2014年京の初夜。





ちなみに、ここ京都ゑびす神社の起源は1202年(建仁2年)、禅の祖といわれる栄西禅師が、建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初に建てたもの。

仏教は寺院で、神道は神社。
そんな風になったのは、ここ最近(明治時代)の話なのだから、神社も寺院も分け隔てなく学び、楽しんで行きたいと思う。