建仁寺塔頭 両足院。

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新緑芽吹く京の朝。
どうしても、やってみたいことがあったわたし。
心躍らせながら向かうは、「建仁寺塔頭 両足院」。

臨済宗総本山、京都五山のうちのひとつでもある建仁寺の境内に位置する。
境内の中央すこし北、素通りしてしまいそうな、こじんまりとした入り口がある。

集合時間の8時30分までに、10人ほどの参加者が集い、お坊さまが案内をしてくれた。
まだ少し肌寒い朝。本堂の板の間の冷たさが、緊張感を誘う。
ここで、わたしがどうしてもやってみたかったこと...


そう、朝の坐禅体験。

まず、ご本尊さまにお焼香をして、朝のごあいさつ。
この有り難いご縁を、仏さまに感謝の意をお伝えします。
その後、臨済坐禅のお作法について、お坊さまから手ほどきを受けます。

臨済坐禅は、壁を背に、結跏趺坐(けっかふざ)もしくは半跏趺坐(はんかふざ)を組む。
そして、手のひらと親指で、円をつくる法界定印(ほっかいじょういん)。

ちょうど、この法界定印の位置、おへその少し下あたりを「丹田」と呼ぶ。
丹田は、気が集中するところであり、人間そのものの中心、軸となっている。
ここに力を入れると、背筋がすーっと伸び、とてもきれいな姿勢となる。
次の目線を1メートル先の床に落とす。決して、目はつぶらない。

次に気息。
坐禅は、座り方のお作法よりも、この呼吸法がもっとも大事。
ゆっくり吐いて、ゆっくり吸う。お腹に意識を集中し、安定した腹式呼吸で整えると、
鐘の音とともに、ゆっくりと坐禅体験ははじまる。

はじまりの合図である鐘の音が止むと、警策を持ったお坊さまが、私たちの前をゆっくりと行ったり来たりする。

只管打坐の曹洞坐禅で育ったわたしは、ひたすら心を「無」にすることを心がけてみる。
すると、心が「無」になるどころか、ウトウトしてしまう。

「無」=「意識が遠ざかる」=「眠る」(気づくと法界定印の親指が離れている...)

「いかん、いかん」、・・・無?眠?・・・・・、「いかん、いかん」

その繰り返し。
起きていようと意識を取り戻すと、今度は余計なことばかり頭に浮かぶ。

しかし、余計なことではなく、少し眼前の景色に目を移してみると、



庭園の美しさ、鳥の声、爽やかな風の音や香りをゆっくりと感じられるこの時間が
とてもかけがえのない貴重な幸せな時間であることに気づく。

3月は、会社の決算ということもあり、とにかく忙しかった...
やっとその生活が一段落し、今、早朝の京都でゆっくり坐禅をすることの有り難さが
じわじわと湧いてきた。すこし物思いにふけると、いつものようにまた欲が生まれた。

この次は、どこに行こうかな?
残りわずかな京の時間をどう過ごすか、頭のなかの時計と観光名所リストを照合させていく。
こんな風にボヤッとしている時は、たいてい猫背になり、法界定印が崩れ、身体が曲がっている。

そんなこんなで、約20分間の坐禅体験が終了した。
たった20分、普段の生活であれば、光の如くあっとゆう間の時間であるが、
坐禅の20分は、すごく長い...。まるで、1時間座っていたかのよう。

足の痺れをなんとか元に戻そうとあがいていると、お坊さまがお茶を出してくれて、
ありがたい法話をしてくれた。

「坐禅しているとき、いつもは気づかない音や香りに気がつきます。」
「葉がそよそよと揺れる、そこの木。」
「何百年も昔からある木は、何を発することもなくただそこにいる。」
「じっとそこにいて、春に芽が出て、夏には緑に覆われ、秋には金色となり、冬
に散る」
「その繰り返しで、ずっとこの地を守っている」

「鳥の声、四季折々の眼前の花々。4月は桜、5月は藤、6月は紫陽花…」
,このような、ありのままの自然の有り難さをいつも感じるとお坊さんは言っていた。

臨済坐禅は「無になれ」というよりは、座ることで「味わう」という感じだろうか?
雑念が浮かんできたら、横に流す、また浮かんできたら、横に流す。
自分のなかに滞留させず、とにかく流し続けることで「無」に近づく。

きっとこんな感じではないだろうか?

とても清々しい朝を迎え、坐禅のあとは、ぐんぐん芽吹く庭園の緑を堪能させて頂いた。


朝の起きしなに、ふと訪れて、ゆっくりと坐禅を組むこの贅沢。
ちょうど数日前まで、金勘定ばかりしていたわたし。
こういう時間こそが、真の上質の価値ではないかと、心から思った。



このような京体験から、お寺の魅力にどんどん気づきはじめていくこととなっていった。




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