2014年初詣。
「悪縁を切り、良縁を結ぶ。」と言えば、安井金比羅宮。

以前から気になっていた安井金比羅宮。
わたしの京都の活動拠点が宮川町ということもあり、京都を訪れる度に前を素通りしていたスポットのひとつ。

悪縁も良縁もその想い次第だし、良縁と思っていたものが掌を返したように悪縁と思うことも、最初の出逢いがあまり気持ちのよいものではなく、悪縁と思っていたものが良縁を結んだりと、一筋縄ではなかなかいかないのが人生。

とはいうものの、悩んだときには「何かにすがりたい」と思うのが人の常であります。
きっと、日本人に染み付いているのが、神様、仏様。
でも、やはり日本古来の神道文化により、初詣と言えば、神社。
神社といえば、お願い事。
…が、セオリーとなっているような気がします。


日頃、良縁に恵まれた仕事とプライベートで、楽しく生きているわたしですが、
ここ数年の恋愛?結婚?に結びつかないのは、なにかの悪縁がわたしにつきまとってる。
...のが理由であろう。と、ここを初詣の地とさせて頂きました。

たぶん、というか、絶対。
理由は外にはないんです、自分なんです…。

さて、ちょっとひとりよがりの話が過ぎたので本題に戻り、
皆さんもご存知の縁切り縁結び碑(いし)。


祈願の方法は、100円以上の御奉納とともに、「形代」に縁に関するお願い事を書きます。
この「形代」をもって、お願い事を念じながら、表から穴をくぐり、次に裏から穴をくぐり、最後に「形代」を碑(いし)に貼ります。

もっと大きいと思っていたこの碑(いし)ですが、意外と?かなり小さいです。
ひとりで穴をくぐるのは、若干恥ずかしいですが、良縁のためっ!!!

ちょこっと他のお札も拝見させて頂きましたが、皆さん「縁」にまつわる色々な悩みがあるようです。


9時前ということもあってか、人もまばらでゆっくり境内を楽しむことができました。
なんだか、街の神社という感じの素朴なところです。

さて、このお正月飾り。
わたしには馴染みのないものだったので、調べてみました。

餅花(もちばな)
どうやら、飛騨高山で、御馴染みの繭玉や五穀豊穣を祈る小正月の風習らしい。
柳、水木(みずき)、柳(やなぎ)などの枝に、紅白の餅をつけると、早春に梅の蕾のような、よく実った稲穂のようなそんな風情のあるお正月飾りです。

京都の料亭やお茶屋などにもよく見られるこの餅花ですが、元々は京の文化ではないらしく、20数年前に京都随一の老舗旅館が東北の正月飾りに刺激されて取り入れられた。なんて話もあります。

真相は分かりませんが、華やかでとてもお正月らしいお飾りであることは間違いありません。

京都の老舗料亭や商店のちょうちんがならぶ、本殿前。
お正月飾りが見られるのもこの時期ならでは。
冬は意外と観光客が少ないのか、割とゆっくり各地を拝観することができます。


1月ともあって、新しい絵馬が所狭しと並んでいます。
ひとつひとつのお願い事に、魂が宿っていて、力強いメッセージを感じます。
ぜんぜん見知らぬ人の絵馬ですが、なぜかすごく応援したくなり、一緒にお祈りをしてしまいます。

2014年の京都は、安井金毘羅宮から始まりました。
今年もどんな学びに出逢えるのか、どんな仏さまに出逢えるのか、
今から楽しみでなりません。




平安時代、平清盛の息女である建礼門徳子ゆかりの御寺として有名な「寂光院」。
平家物語ゆかりの庭園として、長年親しまれている天台宗の尼寺である。

京都大原の寺院のなかで、ぽつんと離れたところに位置する寂光院。
のどかな京野菜の畑を脇目に、バス停から徒歩15分の道のりをのんびり歩く。


鴨川の源流のひとつでもある「高野川」。
清くて冷たい雪解け水は、豊かな京野菜に彩りを与える大切な栄養。


焚き火をしながら、春の訪れを静かに待つ。
長い間、こうやって私たちのために作物を育ててくれている「人」がいるということ。
感謝の気持ちを忘れてはいけない...と改めて憶う。


さて、門には、やはりお正月飾りのしめ縄。
そこで、日本のお正月における「しきたり」が少し気になった。

この日は1月12日。わたしの生まれ育った関東では、飾りを外すのは、大体1月7日。
そして、15日に地域のどんと焼きで飾りを焼いてもらって、おしるこを頂くのが定番。

さて、関西は?
関西では、15日の小正月を迎えて、お正月飾りを外すのが一般的とのこと。

しめ縄は、清浄で神聖な区域があることを示し、災いをもたらす悪い神を寄せつけないよう「魔除け」の意味。古代から伝わる神道、稲作信仰から伝わる風習といわれている。

橙(だいだい)は、熟しても木から落ちない=「これからも繁栄しますように」
裏白(うらじろ)は、シダのような葉で裏が白い=「裏表のない清い心を持つように」
紙垂(しで)は、和紙でできた神祭道具で垂れ下がる稲を表現=「稲の力強さ」

こんな意味が込められているらしい。
やはり、日本の信仰は、古来からの神道であり、稲作、土着文化である。
でも、ここで他の宗教とは対立することなく、共存していくところがやはり日本らしい。


さて、またしても話が脱線してしまった...
ようやく到着した本堂は、なんだか建物が新しい。

「平家物語でも有名な庭園」
「あの建礼門徳子ゆかりの御寺」

んん??ちょっと想像と違う…

まずは、本尊である「六万体地蔵菩薩」さまに、お参りをさせて頂くことに。
とても新しいと思われる御堂に戸惑いを隠せぬまま、本堂の襖をガラっと開ける。

あ、あれーーー!!!!!???
「ものすっごい極彩色で、ものすっごい新しいお地蔵さま」

左手から五色の糸が下りていて、願いを込めながら、その糸を握りると、
お地蔵さまが縁を結んでくださる...らしい。

んんーーー。。なんだか胡散臭い。

寺院めぐり、仏像めぐりをはじめて、9ヶ月。
やはり、寺院の歴史ある建築や仏像から、なにかを感じながら歩み続けてきた。
昔は、彩色豊かであったであろうと想いを馳せながら、現在の趣きに風情を感じる。

それが、まーーったくない。

期待に胸を膨らませ、空腹も後回しに歩みを進めて来たわたしは、
少し...いや、かなり物悲しい気持ちになった。


い、いちおう、せっかく来たのだから...と、
庭園?茶室?にもシャッターを切るものの、まったく気持ちが乗らない。

そして、またしても、一応...の宝物館を訪れてみることに。
やはり、平家物語ゆかりの地ということで、琵琶法師のこと。
建礼門徳子のゆかりの品々と、平家との関係性についての書物が並ぶ。

あまり興味がなかったので、サラーッと流すと、大きな新聞記事が目に入った。
これが、わたしの落胆を、「納得」に変える新事実。

2000年5月9日未明。
火災により、本堂が全焼。
本堂内に安置されていた重要文化財である木造地蔵菩薩立像が損傷した。
警察の調べでは、何者かが灯油を撒いて放火をした疑いが強いと捜査を進めている。

そ、、そういうことかーーー。
わたしの落胆は、「本堂や地蔵菩薩の風情のなさ」から「火災の事実」へと変わった。

焼き払われる前のお姿を見てみたかった。
ただ、それだけ。
きっと、その事実が、最近のこと過ぎただけ。

興福寺も東大寺も東寺の五十塔も再建されたものである。
その再建からもまた月日が流れているから、わたしには分からないだけで、
きっと創建当時の印象からはまったく異なっているのかもしれないし。


逆にこの衝撃の真新しさが、すごく印象に残ることとなった寂光院。
そして、女性ひとりだからなのか、珍しく数珠巡礼の数珠玉を購入したからなのか、
受付のおじさんが、たったひとつしかない、貴重な御朱印!?というのを書いてくれた。



祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理を顕す。


さて、奈良どこ行こうーーーー。
街のインフォメーションセンターで、どこかお寺がないか探しつつ、
ならまち方面に向かって歩いていると、ありました...「元興寺」。

ここは、日本最古のお寺?と智光曼荼羅が有名なこのお寺。
ん??日本最古は、アルカイックスマイルの仏像でおなじみの飛鳥寺では?
そう、実は日本最古のお寺は、現在の飛鳥寺が建立されている飛鳥が発祥です。
では、なぜ?

まずは、仏教伝来の歴史から紐解いてみましょう。
元興寺の開祖は、この人なくしては日本の仏教伝来は語れない…「蘇我馬子」

百済の司馬達等が伝えたのが始まりと言われている仏教。
当時強力な豪族であった、蘇我氏。
わたしの中では、ちょっと悪役キャラの蘇我稲目が仏像に感銘を受け、
仏教を積極的に受容したのがはじまりと言われています。

しかし、日本は古来から土着文化において、原始神事を崇拝してきました。
そこで新しく伝来した仏教を否定する廃仏論争が起こったのが、
「蘇我馬子」VS「物部守屋」の丁未の乱。

この争いによって、仏教に排他的な物部氏が滅亡し、
仏教の教えに基づいた中央集権の国家が形成されていくことになったと言われています。

なぜ、その飛鳥寺(当時は法興寺と言いました)が、この元興寺なのか…
どうやら、平城京遷都の際に、一緒に移ってきたようです。
当時それだけ大切に守られていたお寺だったからでしょうか?

これは、都が平城に遷都された理由とおおきな関係があると思いますが、
ちょっと調査が必要&長くなりそうなので割愛します...

そのため、ここ元興寺の極楽坊の瓦は、飛鳥時代のもので日本最古を言われています。


ところどころ色が異なり、修復もされているはずですが、
今から1300年以上も昔のものとはまったく思えないほど美しい極楽坊の瓦。

奈良時代には、国家鎮護を目的として仏教が重んじられ、
官寺として国分寺、国分尼寺の建立が次々に進められていました。

その中でも、興福寺と元興寺は、平城京の中心地のなかでも最も繁栄をしており、
現在の奈良駅周辺は、両寺院の領土であったと言われています。

わりとこじんまりとした雰囲気の「元興寺」ではありますが、
日本における仏教の歴史を語るにおいて、欠くことのできない寺院であることは
間違えないようです。

さて、ここで有名なものと言えば、さきほどもチラっと出てきた智光曼荼羅。
極楽坊の本尊さまの裏に安置されています。



曼荼羅といえば、密教で知られる「宇宙の真理」。
仏教の世界観において、宇宙を構成する要素を象徴的に表したものです。

曼荼羅の知識については、まだ皆無なので割愛をしますが、
この極楽坊の曼荼羅は、浄土信仰の中心として、後世に強く?影響を残したようです。


さて、少し固い話が続いたので、ちょっと息抜き。

お寺は、仏像をはじめとして、なかなか触れられないものばかり。
しかし、この佛足石は触れるとご利益のある石?なのです。
佛足石とは、お釈迦様の足跡を表現したもので、扁平足の跡、足裏の印など
よく見てみると、結構面白い…。

たしか、ここの受付のおじさんに
「佛足石にはお祈りしながら触るんだよー」って言われた気がする。


圧巻のしだれ桜。満開、ひとり占め。



この時は、ちょうど桜の時期ということもあって、
こじんまりとした境内ではあるものの、ゆっくりと楽しむことできました。

平安中期、律令制度の崩壊とともに、衰退をし始めたという奈良の寺院。
でも、国家プロジェクトとして繁栄し続けたお寺の貫禄たるは、言葉にならない。

ただ寺院を巡るのではなく、歴史的背景とともに辿るとより一層面白みが増していく。

buddhism1209




2013年4月。
わたしの巡礼の旅がはじまった。

「清明」と呼ばれるその日は決まって、仕事をお休みさせて頂き、伊勢神宮を参拝する。
いつのまにか恒例となった家族行事であり、わたしの1年でもっとも楽しみなイベントのひとつでもある。

この年は、4月5日(金)。
帰りの電車を待つこの駅。


名古屋行きの電車を待っていると、交互に方面の違う電車がやってくる。

「ふーん、大阪まで行けるのかーー。」

いつもなら弾丸日帰りツアーなのだが、この日は金曜日。
ということは、次の日は土日なので公休の2連休。
うん、この絶好の機会を逃すわけには行かない。

調べてみると、この電車は「JR奈良線」。

「ふーん、奈良に行けるのかー。」
「中学の修学旅行でしか行ったことないし、奈良ってよく知らないなー。」
「うん、東大寺の大仏も久しぶりに観てみたいし、行ってみるかー。」

そんな軽い気持ちで、奈良行きを決意したわたし。



中学の修学旅行、わたしの地元は決まって、奈良・京都。
メインは京都になるので、奈良は大仏と法隆寺の境内をちょこっと入って、即移動。

だから、たいてい皆、奈良の記憶が薄い…。
もちろん、わたしも一緒。

でも、わたしの修学旅行の記憶の中で、拝観部門の1位は、

奈良だった…。

家族旅行で、京都の名所はひと通り網羅していたからなのか、
奈良がわたしを魅了したのか、、定かではないが、
昔も今も変わらず、拝観部門1位は「東大寺の大仏殿」。

中学の記憶を辿りながら、歩を進めることにしてみる。



わたしが小学校、中学校で一番好きな科目は、社会。
特に好きなのが、日本史だった。

奈良時代、聖武天皇が平城京に都を移した。
疫病の流行や飢饉。政治的にも不安定な状況が続くなかで、仏教に救いを求め、
国の財力と民衆の協力を求めて作られたのが「東大寺の盧遮那仏」。

全国各地から民衆が集められ、日本中の労働力が大仏建立に注がれた。
しかし、国力のほとんどを注ぎ込んだこの大仏建立PJによって、国家財政は困窮し、
50年も経たないうちに、都は、京都に移ることとなる。

さて、大仏はどうやってつくられたのか、図を見てみましょう。


「って、人ちっちゃっ!!!!!」
「どんだけ、大仏でかいのーーー!!!!!」

小学5年生のわたしは、随分驚いた…。
奈良時代のひと、すごい…。機械とかないのに…。

さて、その驚きの大仏が、実際に観られるということで、かなり楽しみだった東大寺。

はじめての野生の鹿との戯れ。


当時も現在も、鹿せんべいからの、、襲来は避けたいので、
ちょっと遠くから見守ってみる。

やっぱ、こんだけ居たら怖いでしょーー。

ちょっとすると、東大寺の玄関でもある南大門。
運慶のおおきな、おおきな金剛力士像が「あ」「うん」の呼吸で、お出迎え。


当時の記憶はまったく薄れてしまったが、改めて観てみると...

リアルでダイナミックな鎌倉時代の仏像。
おおきな身体に引き締まった筋肉。
強い風に吹かれながらも一歩足りとも動かない仁王像の姿。
かっこいいなーー。と惚れ惚れ。

お待ちかねの大仏までは、ただただ一本道が続く。
もちろん、観光客に飽き足りた鹿さん達もいる。
さて、やっと中門が現れ、心躍らせながら、くぐってみる…


「どーーーーーーん!!!!!」

当時のわたしは、実は大仏よりも、この大仏殿の大きさに度肝を抜かれた。
小さな田舎の温泉街で育ったわたし。
こんな大きな建物を観たのは、たぶん…生まれてはじめてだった。

「でかい、、でかすぎる」

この建物のなかに納められている大仏って?どれだけ大きい?
ってゆうか、なんなの?この建物…。

とつぜん、自分が「小人(こびと)」になってしまったかのような、
ちょっとわけがわからず、放心状態。

中門をくぐったあたりで、呆然としていたら、
学校の列から置いてけぼりをくらい、慌てて、走ったことをよく憶えている。

そんな中学3年生のわたしと現在のわたしを重ねながら歩いていくと、
大仏殿はすぐ眼のまえに。



この門扉からしても、やはり自分たちが魔法をかけられて、小人になったのかと思う。
さて、いよいよ盧遮那仏との再会。


やっぱりでかい…
しかも光背にまで、お釈迦さまがいる…


しかも、大仏は1体ではなく、3体…。
両脇に2体のおおきな観音さま。(完全にわたしの記憶から消えていた)
左が如意輪観音、右が虚空蔵菩薩。

如来像は単独のほかに、脇侍を抱え、三尊方式で安置されることが多い。
お釈迦さまを支える付き人が、菩薩である脇侍の役割らしい。

当時のひとは、盧遮那仏1体だけでなく、菩薩や天部までつくっていたのか…
わたしだったら、「もう、1個でいいじゃん、大変なんだから…」と言ってしまいそうだ。

きっと色んな意味があってのことだろう…。

大仏殿のなかには、盧遮那仏の大きさを体験できる「穴」がある。
子供ひとりがスルッと入れる穴。
それが、大仏さまの鼻の穴の大きさということは、身体がどれだけ大きいかが分かる。

ほかにも、4人の天部(持国天、増長天、広目天、多聞天)が安置されており、
この建物ひとつで、たくさんの仏像彫刻を楽しむことが出来た。


現在の金堂(大仏殿)は、江戸時代に再建されたもので、
江戸幕府の都合で、建物は当時のものよりも小さくつくられたとのこと。

これよりも大きかったなんて、考えられない…。

木造の建築物では、現在でも世界最大級を誇っているらしい。
やっぱり、この感動は、昔も現在も変わらない。

buddhism1209